ブログ
趣味を突き詰めたら、仕事が世界に繋がった話
公開日: 2022年11月28日
▼今日の記事を音声で楽しみたい方はこちら
こんにちは!YouTuber ウラケン不動産です。
先日、当社の20周年記念イベントがあり、参加者の皆さんとたくさんお話しして、交流することができました。
僕に初めて会う方は結構高い確率で、「どうしてマレーシアに移住したのですか?」とか「レースを始めたきっかけは何だったのですか?」という質問をしてくださいます。
そこで、今回は箸休め回として、そのあたりのエピソードをお話ししたいと思います。
ある一つのテレビ番組からすべては始まった
「マレーシアに移住した理由は何ですか?」と質問されると、僕はいつも体のいい答えとして、「暖かくて住みやすいから」とか「日本との時差がほとんどなく、日本との行き来がしやすいから」とか「物価が安いから」といったようなことをお答えしています。
しかし、これらは全部後付けの理由です。
実は14~15年前に取った、たった一つのある行動から、海外移住もレースも海外におけるビジネスも全部繋がっているのです。
このたった一つの行動がなければ、僕は今マレーシアに住んでいないですし、レースもやっていなかったと思います。
事の発端は2007年に見たあるテレビ番組でした。
「ガイアの夜明け」という番組で、その時は日産GT-Rの開発ストーリーをやっていました。
当時の僕は、スポーツカーにもスーパーカーにも全く興味がなく、乗ったこともありませんでしたが、その番組に出てくる車というよりも、開発総責任者に釘付けになりました。
その方は、今Voicyのパーソナリティーもやっておられる水野和敏さんです。
当時の日産は、経営破綻しそうな崖っぷちの状態からの経営再建中でした。
皆さんご存知のカルロス・ゴーン氏が社長で、再建計画として、日産の代名詞とも言える「日産GT-Rを復活させよう!」というプロジェクトの全権を委託されていたのが水野さんでした。
水野さんは生粋のレース屋さんで、NISMOという日産のレーシング部門の総監督を何年も務め、日産の黄金時代を築いた名監督です。
日本一速いレーサーである星野一義さんや、長谷見昌弘さん、鈴木利男さんといった名レーサーを育てた監督でもあります。
そして、水野さんが全権を委託されて掲げたビジョンというのが、「4年でポルシェやフェラーリを超える和製スーパーカーを作る!」というものでした。
そのために、今までの組織的な車づくりではなく、「レーシングカーを作るという考え方」で車づくりを始めたのです。
ガイアの夜明けでは、チーム作りから取り組む姿が放映されていたのですが、僕はその番組を見て、ものすごい衝撃を受けました。
GT-Rという車そのものよりも、水野さんに興味を持ったのです。
そして、「こんな凄い人が作る和製スーパーカーに乗ってみたい!」と思いました。
当時はそれほどの資産もなかったのですが、とりあえず試乗車がないか調べてみたら、日産の本社のホームページに試乗会の案内があり、申し込んでみると、なんと200倍の確率で当選したのです。
試乗会は、今は東京オリンピックの選手村の跡地となっている、晴海フラッグのあたりでした。
当時は倉庫街でほとんど信号もなかったので、日産の人が「アクセルを踏んでもいいですよ」と言ってくれたのです。
実際にアクセルを踏んでみたら、もう富士急ハイランドのドドンパに乗ったような衝撃で、加速Gで血が全部体の後ろにいってしまうような感覚になり、「これはすごい!!」と手が震えました。
そして、その足でディーラーに行って、購入申し込みをしてしまったのです笑
納車まで半年待ちと言われたのですが、僕は待てない人間なので、その展示車を売ってもらうようにお願いしました。そして、忘れもしない2008年の4月2日に納車になりました。
中央自動車道、富士五湖道路、そして東名高速を通って、「この車は、すごいな~!」と手に汗を握りながら運転して帰ってきて、首都高でピカッとオービスが光ってしまったのです。
納車の初日に60キロオーバーで90日の免停となるという衝撃的な出会いでした。
実際に憧れの水野さんに会いに行くと・・・
そのあと、どうしても水野さんに会いたくなり、当時、一泊二日のガチなサーキットイベントがあったので、それに参加しました。
そこで初めて水野さんにお会いできて、「どうしてこんな短期間でこんな車が作れたのか」ということを根掘り葉掘り聞いて、「ドイツの開発現場に行きたい!」と言ったら、「じゃあ来なよ!」と言ってくださって、ついにはドイツの開発現場まで乗り込んでしまいました。
そして、「浦田くん、今度はGT-Rのワンメイクレースをやるよ!」と教えてもらったので、僕は二つ返事で「やります!」と、いの一番で手を挙げて、レースの世界に飛び込んだというわけです。
そんなこんなで数年後、不動産投資でマレーシアに行くようになったのですが、マレーシアと言えば、セパン・インターナショナル・サーキットが有名ですよね。
そこで知り合いにそのサーキットで走りたいと言ったら、地元のレーシングチームを紹介してくれて、そこでテストをさせてもらったら、「お前結構やるじゃないか」と認めてもらい、次の年から一緒に乗ろうという話になったわけです。
そこからさらに、海外不動産のビジネスにつながっていったり、自分でレーシングチームを運営したり、車のパーツを販売したり、移住もすることになりました。
面白そう!と感じたことは、まず飛び込んでみる!
様々な縁がつながって今の自分の仕事がある、という話は結構あると思います。
僕の場合は日産GT-Rがきっかけで、水野さんに出会い、そしてマレーシアに海外移住したり、アジアで不動産ビジネスをしたり、マレーシアでレーシングチームをしたり、車の部品販売をしたりということにつながってきたわけです。
趣味を突き詰めたら仕事につながったとも言えますが、これは結果論でしかありません。
僕はいつも「なんだか面白そう!」と感じることは、とりあえず全部飛び込んできました。その中の一つで、面白い未来が待っていたということです。
あなたも「なんか気になる!」「なんかワクワクする!」ということがあれば、ぜひ積極的に飛び込んでみるのが良いと思います。
▼ウラケンに質問できるオンラインサロンはこちら
こんにちは!YouTuber ウラケン不動産です。
先日、当社の20周年記念イベントがあり、参加者の皆さんとたくさんお話しして、交流することができました。
僕に初めて会う方は結構高い確率で、「どうしてマレーシアに移住したのですか?」とか「レースを始めたきっかけは何だったのですか?」という質問をしてくださいます。
そこで、今回は箸休め回として、そのあたりのエピソードをお話ししたいと思います。
ある一つのテレビ番組からすべては始まった
「マレーシアに移住した理由は何ですか?」と質問されると、僕はいつも体のいい答えとして、「暖かくて住みやすいから」とか「日本との時差がほとんどなく、日本との行き来がしやすいから」とか「物価が安いから」といったようなことをお答えしています。しかし、これらは全部後付けの理由です。
実は14~15年前に取った、たった一つのある行動から、海外移住もレースも海外におけるビジネスも全部繋がっているのです。
このたった一つの行動がなければ、僕は今マレーシアに住んでいないですし、レースもやっていなかったと思います。
事の発端は2007年に見たあるテレビ番組でした。
「ガイアの夜明け」という番組で、その時は日産GT-Rの開発ストーリーをやっていました。
当時の僕は、スポーツカーにもスーパーカーにも全く興味がなく、乗ったこともありませんでしたが、その番組に出てくる車というよりも、開発総責任者に釘付けになりました。
その方は、今Voicyのパーソナリティーもやっておられる水野和敏さんです。
当時の日産は、経営破綻しそうな崖っぷちの状態からの経営再建中でした。
皆さんご存知のカルロス・ゴーン氏が社長で、再建計画として、日産の代名詞とも言える「日産GT-Rを復活させよう!」というプロジェクトの全権を委託されていたのが水野さんでした。
水野さんは生粋のレース屋さんで、NISMOという日産のレーシング部門の総監督を何年も務め、日産の黄金時代を築いた名監督です。
日本一速いレーサーである星野一義さんや、長谷見昌弘さん、鈴木利男さんといった名レーサーを育てた監督でもあります。
そして、水野さんが全権を委託されて掲げたビジョンというのが、「4年でポルシェやフェラーリを超える和製スーパーカーを作る!」というものでした。
そのために、今までの組織的な車づくりではなく、「レーシングカーを作るという考え方」で車づくりを始めたのです。
ガイアの夜明けでは、チーム作りから取り組む姿が放映されていたのですが、僕はその番組を見て、ものすごい衝撃を受けました。
GT-Rという車そのものよりも、水野さんに興味を持ったのです。
そして、「こんな凄い人が作る和製スーパーカーに乗ってみたい!」と思いました。
当時はそれほどの資産もなかったのですが、とりあえず試乗車がないか調べてみたら、日産の本社のホームページに試乗会の案内があり、申し込んでみると、なんと200倍の確率で当選したのです。
試乗会は、今は東京オリンピックの選手村の跡地となっている、晴海フラッグのあたりでした。
当時は倉庫街でほとんど信号もなかったので、日産の人が「アクセルを踏んでもいいですよ」と言ってくれたのです。
実際にアクセルを踏んでみたら、もう富士急ハイランドのドドンパに乗ったような衝撃で、加速Gで血が全部体の後ろにいってしまうような感覚になり、「これはすごい!!」と手が震えました。
そして、その足でディーラーに行って、購入申し込みをしてしまったのです笑
納車まで半年待ちと言われたのですが、僕は待てない人間なので、その展示車を売ってもらうようにお願いしました。そして、忘れもしない2008年の4月2日に納車になりました。
中央自動車道、富士五湖道路、そして東名高速を通って、「この車は、すごいな~!」と手に汗を握りながら運転して帰ってきて、首都高でピカッとオービスが光ってしまったのです。
納車の初日に60キロオーバーで90日の免停となるという衝撃的な出会いでした。
実際に憧れの水野さんに会いに行くと・・・
そのあと、どうしても水野さんに会いたくなり、当時、一泊二日のガチなサーキットイベントがあったので、それに参加しました。そこで初めて水野さんにお会いできて、「どうしてこんな短期間でこんな車が作れたのか」ということを根掘り葉掘り聞いて、「ドイツの開発現場に行きたい!」と言ったら、「じゃあ来なよ!」と言ってくださって、ついにはドイツの開発現場まで乗り込んでしまいました。
そして、「浦田くん、今度はGT-Rのワンメイクレースをやるよ!」と教えてもらったので、僕は二つ返事で「やります!」と、いの一番で手を挙げて、レースの世界に飛び込んだというわけです。
そんなこんなで数年後、不動産投資でマレーシアに行くようになったのですが、マレーシアと言えば、セパン・インターナショナル・サーキットが有名ですよね。
そこで知り合いにそのサーキットで走りたいと言ったら、地元のレーシングチームを紹介してくれて、そこでテストをさせてもらったら、「お前結構やるじゃないか」と認めてもらい、次の年から一緒に乗ろうという話になったわけです。
そこからさらに、海外不動産のビジネスにつながっていったり、自分でレーシングチームを運営したり、車のパーツを販売したり、移住もすることになりました。
面白そう!と感じたことは、まず飛び込んでみる!
様々な縁がつながって今の自分の仕事がある、という話は結構あると思います。僕の場合は日産GT-Rがきっかけで、水野さんに出会い、そしてマレーシアに海外移住したり、アジアで不動産ビジネスをしたり、マレーシアでレーシングチームをしたり、車の部品販売をしたりということにつながってきたわけです。
趣味を突き詰めたら仕事につながったとも言えますが、これは結果論でしかありません。
僕はいつも「なんだか面白そう!」と感じることは、とりあえず全部飛び込んできました。その中の一つで、面白い未来が待っていたということです。
あなたも「なんか気になる!」「なんかワクワクする!」ということがあれば、ぜひ積極的に飛び込んでみるのが良いと思います。
▼ウラケンに質問できるオンラインサロンはこちら
